羅馬硝子

About

私は極楽浄土という大目標を捨てたよ。『お山参り』をして死ななければ、極楽浄土へは赴けないのだからな。ならば捨てるさ。そして、ただ死ぬさ。私はな、そうした手間のかかったものをすべて取っ払って、孤独に死ぬんだ。

「あるかどうか誰にも解らぬ極楽浄土を期待して凍え死ぬより、こうして生きる方がいいに決まっている! 斎藤カユよ、お前は自分を誤魔化しているにすぎんよ。半可臭い奴めが」
「なんだと」
「お前は生きるのが嫌になっただけだ。さっさと死んで楽になりたかっただけだ」

「あなたは皆に見られたいんですか? 見られたくないんですか?」
「それが解らないんだよ、実は」
「自分が何を考えているのかすら解っていない人間が偉そうな口を叩かないでください」

打ち解けないのは、皆を見下してるからか?

人生の落とし穴がそこらじゅうにあいている。ちょっとした穴に見えても実際、深すぎて、一度落ちたら上がれない。でも、本当は……誰かが手を差し延べてくれたら、簡単にはい上がれる程度の穴なのかもしれない。

「どうして」そして苛立ちは、沸点に。「どうして今になって、あなたみたいな人が出てきたんですか!」

どうしてこの世にないストーリー、フィクションなんてものをわざわざ生み出す必要があったんだ? 猿が進化しただけの俺達にどうして物語が必要になるだろう。(中略)喜びも悲しみも楽しみも寂しさも現実にあるもので十分なのにどうして作り話が必要になるんだ? 作り話はつまり嘘の産物だ。何で嘘なんかがここに介入して来たりしたんだろう?俺は答えをちゃんと知っている。それはつまりこういうことなのだ。
ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。
本物の作家にはこれは自明のはずだ。(中略)ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと本当らしさが生まれてこないのだ。(中略)そういう正攻法では表現できない何がしかの手ごわい物事を、物語なら(うまくすれば)過不足なく伝えることができるのだ。言いたい真実を嘘の言葉で語り、そんな作り物をもってして涙以上に泣き/笑い以上に楽しみ/痛み以上に苦しむことのできるもの、それが物語だ。

「自分の全存在を、全能力を、全身全霊を賭けてがんばろう。臆病風に吹かれずに、最後の最後の最後まで諦めず、本気の本気の本気を出してがんばろう」

「この背丈の小ささ! この目つきの悪さ! この全然似合ってないツインテール! いやー、最高ですね最高ですね最高なんですねっ」

「だったら私が教えてやろう。貴様が本気だと思っている概念は、妥協と諦観に充ち満ちたゴミクズだ。貴様が本気だと信じている存在は、怠惰と断念に支配された肥溜めだ。貴様は本当の本気というものを出したことがないんだ。気持ち悪い。気持ちが悪いぞ、それは」

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